10月24日水曜日 晴

 

 

 体育の授業がマラソンになってから、左膝が妙な痛みを訴えている今日この頃ですがみなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

さてさて。幸か不幸か、この世に生を受けて初めて、私は渋柿というものを食べました。日曜日の夕方のことでした。

そもそも私は、いつも通りにそれが渋柿だとわかってネタで食べたわけではありません。食べたら渋柿だった、ということです。

 

 それだけなら単なるマヌケ話なのですが、そこで私は大きな、とても大きな障壁にブチ当たったわけですハイ。

 

 最初柿を口に含んだとき、なんとも言えずシュールストレミングライクで撃滅前橋な感じが口腔に広がりーの、舌も内皮も得体の知れない感覚に襲われ、「まさか柿だと思っていたのは青酸カリか」とバーロー的な嗜好を巡らすも、アーモンド臭がしなかったことを思い出し、ああこれはまさか、未開の地へ踏み出したのかなみたいな。俺、今なら飛べるのかなみたいな。

ディテクティブなコナン君は、ことあるごとに現場にこぼれていた白い粉を一舐めして「こ、これは……麻薬!?」みたいなことを発見していますが、もうそろそろ中毒になってもいいくらいの量を摂取してきたのではないかと思います。小学校一年でそれでいいのか。

まあいいか。なんか、ヤク中の母親の隣で子供が泣いてるえーいしー公共広告機構ですのCMを思い出しました。

 

 

 かむばああああっく。

 要は、柿を食べたときの感覚と「渋い」という言葉が結びつかなかったのです。

 わかり難いでしょうか。何かいい例をと考えましたが、考えあぐねた末に思いついたのは「これが……恋?」っていうセリフだけでした。まあつまり、そんな感じです。

前述したように私は初めて渋柿を食べたことになります。それまでの私は、タケノコのアクの強さは感覚ごと知っていても、柿の渋さというものを言葉でしか認識していなかったのです。

 

 あー、辞書って怖いなって思いました。例えば、広辞苑(そういえば改訂されるそうですな)で「仕方ない」と調べると、「已むを得ない」と出ます。そこで「已むを得ない」をあたると、「仕方がない」と出て来るんです。堂々巡り、此処に極まれり。

 辞書がやっているのは、物事を多角的に紹介し、立体的に捉えて理解するのを助けることです。けしてその語の決定的、本質的な意味を教えてくれはしません。

本質的な意味とは、即ち体験です。私たちが嘗て味わった感覚。それを色んな言い回しで絞り込み、「ああ、あのときのあれが『悔しい』という感覚か」と納得することが、「言葉の意味の理解」です。だから、辞書が電子化されて携行可能となった現代において、電子辞書で調べることが簡単に賢くなる手段とみなされるようにでもなったらイヤだなと思います。そして、学校では学べないことってのも沢山あるんだなぁとつくづく思いました。

 

 

 そんな、遂に読了した「彼岸過迄」の最後の方に「因循」という語が出てきて「あーこれか」なんて思った1024日でした。

 

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